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ロッセリーニ『無防備都市』──扉の運動

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chapter 03

開口部が、離れたシークエンスを関係づける 3

Author. HO
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4. 《音楽・音》

開口部の様相や開口部同士の関係性を補完するようにして、音楽が重要な役割を果たしています。

s(映像4). イタリア警察署長と話していたベルグマン少佐がサロンのイングリッドを呼びにいく

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ベルグマン少佐が二重になっているサロンの扉を開けた時に、一瞬音が司令室に漏れ、ショットがカッティング・イン・アクションで切り替わり、少佐がサロンに入ると完全に音楽が響いている状態になります(図2-4-2,3)。サロンで弾いているピアノの音です。その音が司令室の映像に戻っても聞こえているということは、扉が開いているということなんですね。つまり音というものが、扉の運動を補完するように使われているのです。そしてイングリッドが司令室に入って来て数秒すると、サロンの音はぴたりと止みます。音が消えたということは、映像の中になかったけれどもベルグマン少佐がきっちり扉を閉めたということが考えられます。
 他のシーンも少し見てください。

t. 教会の執務室で聞こえる音楽

ピーナが射殺された後の教会のシーンです。中では彼女を弔う音楽が奏でられていますが、執務室にいる脱走兵の男にショットが切り替わっても音楽が聞こえています。このとき画面の後ろにある扉は映像的には閉まって見えますが、音はずっと続いているので、執務室の扉が少し開いている可能性があることを感じさせます。

これは最後から2番目のラストシーンなんですけどもクライマックスのシーンなので長めに見てください。

u. サロンから司令室に入って来たマリーナが、拷問で死んだマンフレディの姿を見て失神する

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随分前に僕が最初にこのシーンを見たとき、図式的な3つの部屋が繋がってワンルーム(ひとつの空間)になったという印象を強く持ちました。すでに司令室と拷問室の扉はベルグマン少佐によって大きく開かれているのですが、僕はサロンと司令室の間の扉も開き切っていたように記憶していたのです。
 マンフレディをゲシュタポに売ってしまったマリーナが、薬で朦朧としながら老将校と肩を組んで拷問室に近づいてきます(図3-u-1)。このときピアノの音も聞こえてくるのです。画面の中ではサロンの扉は閉じられているように見えるけれども、音楽が漏れ聞こえていることによって、3つの部屋が繋がっているという認識に至るのでしょう。僕がワンルームになったと思った原因は、音だったのですね。
 このように、全く対極の用途にあったサロンと拷問室が司令室を間にして繋がり、それまで保っていた独立性が解体され空間はひとつになります。境界がなくなりワンルーム化した空間のなかでマンフレディの死に直面したマリーナは、あまりの衝撃に失神してしまうのです。倒れたマリーナの頭が拷問室と司令室の開口部をまたいでいるのも、このワンルームとなった空間を強調しているように受け取れます。
 

5. 突然の出来事—死 《トンネル》《ジープの扉》

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『無防備都市』では、死が突然訪れます。それらは予期せぬ出来事です。先のマンフレディの死は拷問の挙句の果てですから、ある程度予想される死といえます。ここで指しているのはむしろ、ピーナの死に代表されるような、観客に何の前触れもなく起こる出来事です。そしてこの予期せぬ出来事にも、決まってある種の開口部との関係性が認められます。それは、トンネルとジープの後ろの開口部です。

まず、連続する3つのシーンを見てください。

この映画の中の最初の死は、もちろんピーナが撃たれる場面です。婚約者のフランチェスコが捕まり、幌のついたジープの荷台に押し込められて連行されるとき(図3-v-1)、ピーナはアパートの中庭から表通りに飛び出し、「来るな!」という彼の制止を無視して追いかけようとして射殺されてしまいます。何遍見ても衝撃的な場面です。
 このときピーナが走って通り過ぎるアパートの通路(図3-v-2)は、中庭と表通りを結ぶトンネル状の開口部です。表通り側には大きなエントランス扉が付いていますが、このシーン(昼間)ではそれは開き切っており、通路は、文字通り空洞のトンネル(穴)になっています。このトンネルを通り過ぎて、ピーナは銃撃されました。
 続く2つ目の死も、大きな半円形のトンネルを通り抜けた後に起こります(図3-w-1)。待ち伏せしていたレジスタンスが、フランチェスコたち仲間を救出するために、ドイツ軍のジープやトラックを襲撃するシーンです。その場で撃ち合いが始まり、ドイツ人とイタリア人の双方が数名死にます。マンフレディらレジスタンスが待ち伏せしているショットの背景には、エウルに建つ労働文明宮のファサードも見えますが、この建物の特徴はまさに整然と配列された半円アーチのトンネルヴォールトです(図3-w-2)

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3つ目の死、レストランの羊の場面にも、このような半円アーチのトンネルヴォールトを目にすることができます。それは店内の壁にかかった絵画に描かれたローマ時代の水道橋です(図3-x-1)。そしてこのシーンの最初、羊が2頭現れたのはジープの荷台からでした(図3-x-2)。

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そして4つ目の死は、本当のラストシーン、原っぱのシーンです。

y. 神父の処刑

これは、マンフレディが拷問死を遂げたすぐ後に来るシーンです。初めてこの映画を見たのは多分中学か高校の頃、深夜のテレビ放映で見たのが最初だと思いますが、そのときこのシーンはいらないなと思ったんですね。ストーリー的に考えると、レジスタンスのリーダーであるマンフレディが拷問室で死んだ時点でもう終わりにしてもいいと思えるのに、なぜわざわざ神父のシーンがあるのか、当時は冗長な感じがして不思議でした。その疑問はずっと痼(しこ)りのように残っていたのです。ところが、開口部の映画ということで捉えるとまったく違う世界が見えてきて、このシーンの重要性がよく分かるようになりました。
 まずは突然の死についてですが、ここにもそれと関係づけられるトンネルヴォールトとジープの後ろの扉があります。ゲシュタポの将校とイタリア軍の兵隊が煙草を吸いながら神父の到着を待っているとき、彼らの背景には、半円形の大きな口を開けている格納庫が映っています(図3-y-1)。神父を護送してきたジープが停まり、後ろの扉が開いて神父が降りて来ます(図3-y-2)。そして、神父が椅子に括り付けられているとき、その背景には再びトンネルヴォールト状の格納庫の内部の暗がりが映っています。その半円形の形状は、フランチェスコたちの救出シーンで目にしたトンネルと重なります。

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そしてジープの後ろの扉から神父が現れるシーンは、明らかに羊がジープから降ろされるシーンの反復です。レストランのシーンでは、1発目の銃声を聞いたマンフレディらが扉を開けて中を覗いたところでもう1発というように、2度銃弾が放たれます。最後の神父の場面では、ゲシュタポの将校がイタリア軍の兵隊に命じて神父を撃たせるのだけれども、その1度目の銃声の後も神父は生きていた。イタリア兵は銃口を下に向けて撃って誰も神父を狙わなかったからですね。それに怒った将校が不意に放った2度目の銃弾で神父は殺されてしまいます。これも羊のシーンの反復です。ここには明確な反復関係があります。突然の死というのは、この2度目の銃弾を指しています。

さらにこの原っぱのシーンは、これまでに取りあげてきた格子や、音によるワンルーム化という主題とも密接な関係を持っています。
 この章の最初では、格子窓だったり、レストランで板戸を開けると鉄格子があったりという開口部を紹介してきました。今お見せした最後のシーンは、子供たちの前に金網があります。開口部はありませんが、金網ごしに出来事を目撃するという点では、格子のところで見た3つのシーンと類比の関係を持ちます。

ただ相違点もあります。
 まず3つのシーンは、突発的に出来事が目前に起こっています。ピーナは突然外の爆発音を聞きますし、マリーナがレストランで席に着いたら突然銃声が鳴るというように。屋上のシーンもそうでした。けれどもこの子供たちの場合は、出来事が突発的に起こっているのではなくて、自分たちの信頼する神父が処刑されるという情報を得てこの場所に来ている。そこに違いがあります。もう一つの違いは、自分たちと出来事の間の金網に対する反応です。有刺鉄線でできている金網なのですが、子供たちはこれに手を触れています(図3-y-3)。パン屋の窓のところで話したように、触覚的に境界というものを認識しているということがいえます。
 それから彼らはここで何をするかというと、口笛を吹くわけです。ゲシュタポ本部の最後のシーンとの関係でいえば、あの場合はサロンの音が漏れてきたのですが、子供たちの場合、自分たちから音を発する事によって、神父のいる側と自分たちの領域を繋げようと、空間をワンルーム化しようと、積極的に働きかけているのだと受け取ることができるのです。

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今日は、映画が、事物の関係性によって、ストーリー(題材としての物語)とは違った読み方を可能にするということをお話ししたいと思い『無防備都市』をとり上げました。『無防備都市』については、「ネオレアリズモ」という運動や、撮影された時と場所の特異性、そのような特別な状況を抜きにして語ることは難しいのですが、それだけがこの映画の本質ではないと考えています。むしろ指摘してきたような開口部の関係の結びつき、つまり事物同士の結びつきが、この映画の強固な構造となっていると僕は考えていて、その重要性をお話ししたかったのです。映画というのは視覚的な媒体です。そこに見えている事物で語ることが必要です。その姿勢に徹するよう、なるべく関係性をシンプルに指摘するに留め、意味の解釈に行き過ぎたり、イメージで語ってしなわないように務めました。
 そして、この考え方や態度は建築にも通じると考えています。はじめに、一本の映画を題材に建築の話をすると言ったのは、このような意味においてです。

今回、あえて言及しなかったシーンも多々あります。もう一度見ていただいて、見つけていただければと思います。今日はありがとうございました。

レクチャー参考文献


・「ロベルト・ロッセリーニに聞く」、『作家主義』、奥村昭夫訳、リブロポート、1985所収。(原書:La Politique des Auteurs, Editions Champ Libre, Paris, 1972)
・ロベルト・ロッセリーニ『ロッセリーニの自伝に近く』、ステファノ・ロンコローニ編、矢島翠訳、朝日新聞社、1994。(原書:Roberto Rossellini, Quasi un’autobiografia, Mondadori, 1987)
・ロベルト・ロッセリーニ『ロッセリーニ 私の方法』、アドリアーノ・アプラ編、西村安弘訳、フィルムアート社、1997。(原書:Roberto Rossellini, Il mio metodo, Marsilio Editori, Venezia, 1987)*日本語版は原書の抄訳。
・マリオ・ヴェルドーネ『ロッセリーニ 現代のシネマ10』、梅本浩志・大空博訳、三一書房、1976。(原書:Mario Verdone, Robert Rossellini, (Cinéma d’aujourd’hui 15), Editions Seghers, Paris, 1963)
・『世界の映画作家25—ネオリアリズムの作家と伝統:ロベルト・ロッセリーニからフランチェスコ・ロージまで』、キネマ旬報社、1974。

editorial collaborator: RN

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ロッセリーニ『無防備都市』