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ロッセリーニ『無防備都市』──扉の運動

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chapter 03

開口部が、離れたシークエンスを関係づける 2

Author. HO
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2. 《クローゼットの扉》

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次にクローゼットの扉に注目してもらって、今と同じように関連を探ってみようと思います。ここでも最初に3つ映像を見てもらいます。

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最後のマリーナと最初のピーナのシーンの類似点は一目瞭然でしょう。2人の女性が、クローゼットの前で、マンフレディに話しかけながら同じ身振りをする。つまりクローゼットの扉を開けて身体を半分入れているような身振りの反復です(図3-e-1, 3-g-1)。実は、先にお見せした格子を介して出来事を目撃するシーンも、ピーナとマリーナに類似の関係がありました。このとき一緒にいる男性も同じです(マンフレディとフランチェスコ)。
 ところで『無防備都市』全編を通して、ピーナとマリーナが同一画面に現れることはありません。絡みがないということです。しかもピーナは途中で死んでしまいます。格子のシーンもクローゼットのシーンも、ピーナのシーンがまず先にあって、ピーナの死後、マリーナがピーナのシーンを反復しています。画面上は絡みがない者同士で、対照的な生き方をしている2人の女性を、ロッセリーニは開口部と身振りの類比関係によって結びつけようとしています。

もう1つのシーンは、ゲシュタポがピーナのアパートを一斉捜索する場面です。部下が他の部屋を調べている間、髭の兵士がクローゼットを開けて人がいないかどうか調べます(図3-f-1)。このように、レジスタンスを見つけ出し捕えるという目的の下では、部屋の扉であろうとクローゼットの扉であろうと、人間が潜んでいる可能性があると思えば片っ端から扉を開けて中を確かめるわけです。このとき家具の扉と部屋の扉に区別はありません。
 この兵士の捜索とピーナたちのクローゼットに半身を入れるという身振りが重複すると、他のクローゼットの存在にも自ずと注意が向いてしまいます。そういえば最初のゲシュタポ本部のシーンにもクローゼットがあった、などと思い出して、何かがあるんじゃないかと僕は思ってしまうんですね。
 例えば、神父が訪ねる骨董屋にもクローゼットがありました。

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h. 神父が骨董屋に入る

3-h-1

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通りから神父がガラス戸を通って店内に入ります。その右後ろに大きなクローゼットが置かれています。扉は閉じたままです。実は羊が撃たれるレストランにも、入口のすぐ横に閉じたままのクローゼットがありました(図3-h-1)。
 結局ゲシュタポ本部のクローゼットの扉も最後まで開くことなく、じっと閉じられたままでした。けれども、いま言った重複する身振りなどの関連性に観客が気づくと、閉じたままのクローゼット、さらには普通に閉じられている扉に対しても、意識的にならざるを得なくなるわけです。
 その結果、映画の中に見えているクローゼットの中であったり、扉の向う側に存在しているであろう部屋などといった、画面では見えていない空間へと映画内空間が拡大していくことになります[*1]
 

3. 扉の様相─《開いている扉/閉じている扉》

『無防備都市』に出てくる扉の様相にもいろいろあります。ここで全てに触れる時間はないので、そのうちの何点かを見てもらいます。その有り様によってその場にいる人物たちの人間関係が示されたり、他のショットとつながりをもってしまったりというようなことが起きます。

[扉をきっちり閉める]

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どれも、扉を完全に閉めています。
 続いて、扉がきっちり閉まっていないシーンです。

[扉が少し開いている]

扉をきっちり閉めるシーンを見ると、どれも扉を閉めた部屋の中で内密の事柄が行われている場合と言えるでしょう。神父とマンフレディがこれから重要な話をするというのが分かっていますから、ピーナは退出する際、扉をきっちり閉めています。他に、こっそり薬物を使用しているマリーナ、ゲシュタポ本部の司令室など、隠し事や機密性のある場合に扉は固く閉じられます。爆発のシーンについても、(それを戦闘による爆撃と捉えたピーナが)自分たちの身を隠すために閉じたと考えられます。

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 扉を閉め切るということは、扉によって隣の部屋との境界を作り部屋の独立性を保とうとしているということです。一方、扉を少し開いたままにしているシーンというのは、機密性の逆の場合と考えられます。わずかであっても扉が開いていれば、音や光は漏れるし対流も生じます。扉を介する2部屋が繋がり空間が共有されるということです。
 家族だけで家の中にいる場合、たいがい扉はきっちり閉まっていません。フランチェスコが子供と話す場面やマンフレディの隠れ家(老婆たちの住むアパート)の場面です。ピーナが婚約者のフランチェスコと2人で踊り場に座って話す場面、あそこでも後ろの玄関扉がわずかに細くスリット状に開いているんですね(図3-o-1)。あの隙間があることで、アパートの共有空間である踊り場が、一時ピーナの家の延長になっているのです。この時2人は、家の中の家族と一緒に居ると同時に、プライベートな時間を過ごしているわけです。ピーナがマンフレディに踊り場で初めて会った時も、自分の家の玄関扉を開けたままカギを取りに家の中に入ります。マンフレディがフランチェスコの友人と分かって気を許していることが示されている。扉を閉め切らないことで、親密性を表明していると言えるのではないでしょうか。

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このような扉の状態が示す親密性を利用して、マリーナは盗み聞きをします。

q. マリーナの自宅:居間にいるマンフレディとフランチェスコの会話を立ち聞きするマリーナ。

画面中央に位置する、スリット状にわずかに開いた扉を開けてマリーナが現れます。彼女はドアノブに手を置いたまま立っていますが再び扉をスリット状に戻し、背後で盗み聞きを続けます(図3-q-1)。しばらくして、扉の音をカチッとたてながら居間に入って来ます。最後に退室するときも、扉を完全には閉めません。ピーナであれば、きっちり閉めるところでしょう。

ゲシュタポ本部においても、今お見せしたように部屋の独立性あるいは機密性の保持のために、いつも扉はかっちりと閉まっています。部下がベルグマン少佐のいる司令室から退室する際は、きちっと扉を閉めていますね。これが基本です。

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ところで、ゲシュタポ本部のシーンは今日の冒頭にも2つ見てもらっていますが、3つの部屋が一列に並んでいるという平面構成になっています(図3-1)。ベルグマン少佐のいる司令室を真ん中にして、拷問室とサロンという対極の用途を持つ部屋が両側に配置されています。これは非常に図式的なプランであるといえます。
 前にも言いましたが、『無防備都市』の中でセットを用いているのは、このゲシュタポ本部だけです。他は全てロケーション撮影されたものといわれています。ロケーションとセットというものは、大抵は、映像として1つのフィルムの中に並べられると変な感じがするものなのですが、『無防備都市』に関していえば、僕はこの違いにあまり違和感を覚えませんでした。それを可能にしているのは、やはり開口部なのではないかと考えています。あらゆる場面で起きている開口部の運動が、かなり強固に飛び火的な連関をつくるので、ロケとセットの差異を見えなくさせているのだと思います。無意識的かもしれませんが、開口部や扉というものに引っ張られて、映画全体に対してもひとつの運動を感じているということかもしれません。
 そのような開口部による結びつきや、細部の積み重ねがあって、はじめてゲシュタポ本部の扉が説得力を持つと考えられます。そしてついに、それまできっちりと閉じられていた拷問室の扉がベルグマン少佐によって開け放たれる場面は、ひとつの頂点です(図3-r-1)。

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r. 扉を開け、拷問を受けるマンフレディの姿を神父に見せるベルグマン少佐

この場合、扉が開くことは親密性の表明ではなく、むしろ機密の開示です。これによって、扉一枚の隔てによって、それまでかろうじて成立していたそれぞれの部屋の異なる用途の独立性が、途端に保てなくなるのです。この後、ゲシュタポ本部のシーンはクライマックスを迎えます。そのシーンは次に話す音と関わりを持ちます。

  • 1.ロッセリーニの他の作品にまで関係の輪を広げれば、『ローマで夜だった』(1960)ではクローゼットが屋根裏の隠れ家への秘密の入口になっていたことが挙げられる。また『われら女性』(1953)では、イングリッド・バーグマンが生きたニワトリを食器棚の中に隠すシーンがある。
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ロッセリーニ『無防備都市』