最初(1章)に、『無防備都市』が開口部の映画だという第1の理由は、登場する開口部の数の多さにあると言いましたが、第2の理由として、離れたシーンの開口部の間に、飛び火的な繋がりが存在しているということが挙げられます。その関係の事例を、これからいくつか紹介していきます。
最初に3つのシーンを見てください。
最初の映像は、神父とマルチェッロが、アパートの屋上で爆弾を抱えている片足の少年ロモロを説得しに行く場面です。ここには何度見ても意味がよく分からないシーンが入っています。結論を先に言うと、それは開口部の連関を裏付けるためにあるということなのですけれど、神父がロモロから爆弾を取りあげて引き返そうとする、その後のシーンです。「助けて!」と叫ぶ女性の声が上方から聞こえ、見上げると、隣のアパートのベランダで女性がドイツ兵二人に捕えられようとしています。確かに今アパートではゲシュタポによる抜き打ち捜索が行われている最中ですが、その目的はマンフレディら男のレジスタンスを探すことであって、女性を捕えるシーンがどうして必要なのか意味が曖昧です。画面の中の神父たちも、その出来事に一瞬目を向けるもののすぐに目をそらして屋上を後にします。説明されないままに次のシーンに移ってしまうのです。先に、ロッセリーニのショットは“ぶっきらぼうに繋がれている”と言った理由は、このようなところにあります。
2つ目は、ピーナとフランチェスコとマンフレディの3人が部屋の中にいるとき、突如外で爆発音が起こります。その様子を、3人がガラス窓越しに見つめる場面です。
3つ目は、マンフレディとマリーナ(ダンサー)とフランチェスコがレストランの席についている場面です。一発の銃声が聞こえ急いでバッテン印のついた両開きの板戸を開けると、そこで目にするのは、イタリア兵にピストルで撃たれる羊の姿でした。
3つのシーンで共通するものは何だと思いますか?
2つ目と3つ目には、明らかに多くの類似点がありますね。男性2人と女性1人が部屋の中にいると、部屋の外で出来事が突然起こり、それを3人が目撃するということです。
では、最初の屋上のシーンはどうでしょうか。突然の出来事を目撃するという点は共通しそうですが、果たしてそれだけでしょうか。
今、屋上と言いましたが、ここは元は室内だったところが爆撃によって破壊され外部になってしまった場所です。女性が叫ぶショットの少し前のところからもう一度画面を注意深く見ていてください。神父がバルコニーにいる女性を見上げたとき(図3-a-1)、神父と女性の間にあるものが見えます。そうです。むき出しになった鉄筋の格子です(図3-a-2)。爆撃を受けて天井に大きな穴が開いていたのです。神父は、鉄筋格子のある大きな開口部を通してバルコニーの女性を見ていたということがわかりました。
つまり、ここでの女性の出来事はひっかけのようなもので、僕たちはそちらに注意が向いてしまいますが、実は天井に開いた大きな開口部と鉄筋格子こそが重要だったのではないかということです。
そのように捉えると、3つのシーンの関係が明らかになってきます。
すべて、突然の出来事とそれを目撃する人物との間に開口部がありました。しかもそれらの開口部は、単に透明なガラスが嵌っている窓や、ポカンと何もない開口空間があるだけというものではありません。屋上のシーンには、説明したように鉄筋の格子がありました。2番目の、ピーナのアパートの開口部は格子入りのガラス窓でした(図3-b-1)。さらにガラスにはバッテン状にテープが貼ってあります。戦時中はよくこの様にしていたみたいなのですけど、あれは爆風によるガラスの飛散を防ぐためのテープです。3番目のレストランでは、両開きの板戸を開けると鉄格子があるという開口部でした(図3-c-1)。このように、出来事と目撃する人物の間に、必ず格子のような物体が介在しているのです。
またレストランの板戸ですが、ここにもなぜかバッテン状にテープが貼られています(図3-c-2)。板であってガラスはないですし、そもそも外部に面した開口部ではありませんので、飛散防止のために貼ってあるとは考えにくい。ですから何か怪しいと感じてしまいます。まさに “映画の中に存在するもの”どうしを結び付けようとしたというロッセリーニの言葉を裏付ける事物の一例なのではないかと、僕は思っています。
さらなる共通点として、誰もが格子を意識していないということが揚げられます。ピーナのアパートのシーンで、登場人物たちは外で起きている爆発事件を凝視しています。格子窓の枠やテープの影がはっきりと彼らの顔面に落ちているにもかかわらず、目の前に存在しているこれらのものに意識的である様子は微塵もないんですね。3つ目のシーンでも同じです。登場人物たちは羊が撃たれるという出来事に集中していて、鉄格子の存在には無頓着です。また屋上のシーンに見たように、僕たち観客も、鉄筋格子のある開口部を見落としているわけです。こんなにはっきりと画面に映し出されているにもかかわらず、神父と同じように女性の方を見てしまって、あの鉄筋格子には気づかなかった。そうすると、映画の中には、登場人物も、映画を見ているわれわれ観客も気づくことのない事物があるということです[*1]。
ここまでの話を聞いていて、ある疑問が浮かぶかもしれません。それはこうです。「登場人物が格子の存在に気づいていないことを、僕たちはどうやって知りうるのだろう?」
それを確かめるために、このシーンを見てもらいましょう。
d. パン屋に群がる民衆
このシーンは映画の最初の方にありました。格子入りのガラス窓を介して、中にいるのがパン屋ですね。夫婦でしょうか。外から窓に詰め寄ってパンを出せと訴えているのが民衆です。パン屋の主人の両手に注目してください。格子の枠をつかんでいます(図3-d-1)。つまり主人が格子を触覚的に認識していることが画面に示されているということです。それに加えて、パン屋は外の出来事を一方的に目撃しているわけではありません。目の前にはパン屋を見返す民衆たちがいます。ここには双方向で意志のやり取りが存在しているのです。
今指摘した2点(触覚的認識・双方向の意思疎通)は、前の3つのシーンと比べるとことごとく対照的であることが分かります。同じ映画の中で、格子に触れている場面と触れていない場面があるとき、前者の方が遥かに格子の存在に意識的であると言わざるを得ないし、後者も前者と同様に格子の存在を知覚していると言うことは難しくなるのではないでしょうか。
そして先ほど映画の中には登場人物も観客も気づかない事物があると言いましたが、その逆のことが、パン屋の格子窓にあてはまるように思います。つまりこの映画を見た後で、格子のある窓として真っ先に思い浮かぶのは、このパン屋の窓なのではないかということです。登場人物が意識すれば観客も気づくのです。映画内の事物に、登場人物が「触れているか/触れていないか」ということは、われわれの意識/無意識に確実に影響を及ぼしているのです。
以上のことから、先の3つのシーンでは、登場人物も格子の存在に気づいていないと考えられるのです。
ここに揚げた3シーンの開口部には、必ず視線と出来事の間に障害物(格子)があるという共通関係を見てきました。これらのシーンは、104分の映画の中でまったく違う場所、つまり離れているシークエンスに配置されていているのですが、ひと度この関係に気づくと、途端に互いに関連を持ち始め、見る者の意識に働きかけます。これが先ほど言った飛び火的な事物の繋がりということです。
ロッセリーニは、“古典的デクパージュ”とは完全に異なる方法で、映画の中の事物や事柄を観客に気づかせるのです。
「サミュエル・バトラーは──おそらく彼が最初だろう──われわれが一番よく知っているのは、われわれが一番意識していないことだと指摘した。これは、習慣形成のプロセスが、より無意識的でより太古的なレベルへ知が沈んでいくプロセスだということを述べたものである。無意識の中に含まれるのは、意識が触れたがらない不快な事柄だけではない。もはや意識する必要のないほど慣れ親しんだ事柄も多く含まれるのだ。“身についた”ことは、意識の手を離れ、そのことで、意識の経済的な活用が可能になる。」(グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学 改訂第2版』、佐藤良明訳、新思索社、2000、216頁。原書1972。)格子や金網ごしに出来事を目撃することに私たちは慣れてしまっているのだろう。それを改めて意識に呼び戻したのは、ロッセリーニの功績である。ジャン・リュック・ゴダールもロッセリーニに触れて以下のようにインタビューで話している。
「ぼくは着陸しようとしている飛行機、といっても、着陸しようとしていながら上昇しているという印象を与える飛行機を撮ろうとした。そしてあそこには、ロッセリーニの影響が見られる。つまり、カメラを置くべき位置はたくさんあるわけじゃない、ただひとつあるだけだということだ。そしてその位置に置いたカメラの前に金網があれば、それは当然の報いだというわけだ‥‥ そうした場合の映像は、それを望む者にとっては、隠喩に富んだものにさえなりうるものだ。そうした映像は充実していて開かれた映像で、そこには数多くのものが含まれているものなんだ。もっとも、われわれにはそのなかのひとつのものしか見てとることができないんだが、でもこれは大した問題じゃない‥‥」(ゴダール監督『こんにちは、マリア』の飛行機の着陸シーンについて)(ジャン・リュック・ゴダール「人生を出発点とする芸術─アラン・ベルガラによるジャン・リュック・ゴダールへの新しいインタビュー」、『ゴダール全評論・全発言1』、奥村昭夫訳、筑摩書房、1998所収、29頁。原書1985。)