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ロッセリーニ『無防備都市』──扉の運動

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chapter 02

『無防備都市』は開口部の映画 3

Author: HO
2-3

3. ショットの配列、シークエンスの配列

次に映画のショットとシークエンスについて話します。映画というのはひと繋がりの映像ではなく、複数のショットが繋がって90分とか120分の映画になります。ショットというのは、カメラが回ってから止まる(カットが入る)までの連続して撮影された映像のことです。日本語ではショットを指してカットと言っていたりするのでややこしいのですが。
 一本の映画は、時間や空間による一連のまとまりごとに区分することができます。その一区分をシークエンスと呼びます。シークエンスは、言うまでもなくショットの集まりですね。日本ではシークエンスよりもシーンという呼び方が普及しているので、僕もこれまでシークエンスと言うべきところもシーンと言っていますが、本来シーンは、シークエンス内の小区分を指します。
 例えば最初に紹介した『無防備都市』の冒頭場面は、マンフレディの隠れ家での出来事を複数のショットで描いていますが、このまとまりが1つのシークエンスです。シーンというのは、この例の場合、老婆が鎧戸を開けて顔を出すシーン、マンフレディがトップライトから階下を見下ろすシーンなどというように、動作の一区切りを指すことが多いですが、今言ったようにシークエンスを指している場合もあります。

ところで最初に、映画を見ることを建築を見ることと同じように考えているとお話ししましたが、実際の設計作業においても、映画と建築を類比的に捉えて考えることが多々あります。
 3階建ての集合住宅を例に考えると、各住戸には、居間があったり、食堂があったり、他に寝室、バスルーム、キッチン、収納室など、複数の部屋があるわけです。建築を映画との類比関係で見ようとする場合、例えば、一つの部屋を一つのショットと捉えてみると、一つの住戸はショットの集まりであると考えられるわけです。すると、ショットの集合はシークエンスなので、一つの住戸は、一つのシークエンスだと考えることができます。

先程見た小津の廊下の1ショット(約7秒)の中には、人物(岩下志麻)、青い扉、天井吊りの蛍光灯、天井の梁、床の緑色ピータイル、巾木、丸いノブ、手にもっている封筒、ラインで縁取りされたグレーのカーディガン、ハイヒールの足音といったものを知覚できます。同じように、集合住宅の住戸内の一つの部屋においても、階層の異なる様々な事物が存在しています。柱、梁、壁、床、天井、窓、扉、目地、光、音、風景といった諸々の事物です。「これらをどのようにコントロールして関係づけていくのか?」と考えてみるのです。
 次の段階としてショットとショットをどのように関係づけるかという問題があります。集合住宅でいうと、「住戸内の部屋と部屋をどのように関係づけるか?」ということです。小津の先程の場面では、廊下のショットと役員室のショットは、登場人物の動作の繋がり(カッティング・イン・アクション)によって結び付けられていました。
 そして次には、「隣り合う住戸(=シークェンス)と住戸(=シークェンス)を、どのように関係づけるか?」という問題があります。映画でいうと、シークエンスどうしの繋がり方のことです。
 さらには、「2階の住戸(=シークェンス)と3階の住戸(=シークェンス)を、どのように関係させられるのか?」ということも考えてみます。映画の場合だと、まったく離れているシークエンスどうしを、どのように関係づけるかということです。
 この様にかなり強引に建築に引き寄せて映画を見てみることで、あるいは、映画に引き寄せて建築を考えることで、映画そのものの見方も変わらざるを得ないし、建築を考えることにおいても、新しい捉え方ができるのではないかと期待しているのです。

映画の話に戻ってショットとショットの関係について、もう少し話します。カッティング・イン・アクションのような動作による繋がりの他には、何によって繋がることが多いのかということです。ロッセリーニより前の時代の監督たちは、物語を説明するための心理的な描写によって、画面同士を繋げていました。

1950年代頃、フランスで影響力のあったアンドレ・バザンという映画批評家が「映画的リアリズムと解放時のイタリア派」という論文の中で、次のように述べています。

グリフィスに始まる古典的なデクパージュ(筆者註:編集技法、ショットの配列)は、現実を、出来事に対する論理的あるいは主観的な一連の観点にすぎない連続的なショットに分解していた。部屋の中に閉じ込められているひとりの登場人物が、彼の死刑執行人が彼をそこに見つけにやってくるのを待っている。彼は苦悩とともに扉を見つめる。死刑執行人が入って来ようとする瞬間、演出家は、間違いなく、ゆっくりと回る扉の把っ手をクローズ・アップするだろう。このクローズ・アップは犠牲者が窮地に陥ったことを示すそのしるしへの、彼の極度の注意集中という理由によって、心理的に正当化される。今日の映画言語のまさしく基礎となっているが、連続する現実の型通りの分析に他ならない、このようなショットの連続なのである。[*1]

もちろん現在の僕たちが目にするテレビドラマや映画もほとんどが、バザンの言う“古典的なデクパージュ”でつくられています。ショットが次のショットに対して時間的・空間的に連続していくように、つまりストーリーが分かり易くなるようにショットを積み重ねて行く訳です。

ところが、『無防備都市』のショットやシークエンスの作り方というのは、物語を説明する上で論理的に並べたり、“古典的デクパージュ”のように登場人物の心理を裏付ける為に繋がれているというよりも、ショットとショットの関係がぶっきらぼうに繋がっているといった方が妥当だと思います。もっと言うと、分かりづらいという印象が強いのではないかと思います。
 ロッセリーニ本人が、このように語っています。

私はカットが次のカットにうまく繋がっているのか否かは、まったく問題にしません。本質を提示したらカットする、それで十分です。映像の中に存在するものを繋ぐことの方が遥かに重要なのです。(下線筆者)[*2]

彼はショットとショットをスムーズに繋げるということより、むしろ、あるショットから10分後、30分後のショットといった、映画内の全く離れた場所のショットに繋げることに関心があったということです。より細かく言えば、あるワンショットの中に存在する部屋や人間や扉といった事物(もの)を、全く別のショット内の部屋や人間や扉と繋げることの方が重要だと考えていたのです。『無防備都市』はこのように、”映像の中に存在する”事物どうしを飛び火的に繋げることで映画全体の構造がつくられているといっても過言ではありません。
 『無防備都市』には、たくさんの種類の開口部が登場します。それらは、ドアだったり、ガラス窓だったり、鎧戸だったり、トップライトだったり、トンネルだったり、砲弾をうけた穴だったりするのですが、ここではそれらをひっくるめて開口部(=穴)と言っています。それらの開口部に注目して、開口部の運動がどのようにこの映画の中で関係づけられているかについて、いよいよ実際に見ていくことにします。

  • 1.アンドレ・バザン『映画とは何か〈3〉─現実の美学・ネオ=リアリズム』、小海永二訳、1973、美術出版社、29頁。
  • 2.ロベルト・ロッセリーニ『ロッセリーニ 私の方法』、アドリアーノ・アプラ編、西村安弘訳、フィルムアート社、1997、P.140。
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ロッセリーニ『無防備都市』