人が扉を開けて部屋に入るという一連の動きを描くのに、どのような撮り方があるのか。いろいろありますが、その一例を他の巨匠たちの作品から紹介します。
巨匠といわれる映画監督は皆、扉を通り抜けることにとても敏感に対応していると思います。というのも、映画の中の登場人物が、ある部屋にいて扉を開けて部屋の外に出て行ってしまう場合、固定されたカメラでは扉の向こう側までの動きを一度にフィルムに収めることが出来ないからです。あたり前のことですが、映画にとって、とても重要な問題だと思います。
最初はアルフレッド・ヒッチコックの『ロープ』という作品です[*1]。
〔映像〕
説明は後でしますので映像を続けます。次はハワード・ホークスの『暗黒街の顔役』、1932年の作品です[*2]。ちょっと長いですが、冒頭の連続する2つのシーンをお見せします。2回開口部を通り過ぎるところがでてくるので、注意して見ていてください。
〔映像〕
最後は、小津安二郎の『秋刀魚の味』です[*3]。オフィス内で、岩下志麻が役員室に向かうシーンです。
〔映像〕
以上、3人の監督の映像を見ていただきました。
最初の『ロープ』というヒッチコックの映画は、登場人物の後を追うようにしてカメラも一緒に開口部内を通り抜けています。扉が開かれるとカメラも部屋に入り、また次の開口部も通り抜け、部屋を通過し、最後には開いた扉の枠内にカメラは留まりますが、登場人物が開けた冷蔵庫の中までを画面に収めています。このようにカメラも人物と共に開口部を通り抜けるという方法で、先程お話した扉の向う側問題を解決しようとしています。
部屋というのは、たとえ隣合っていても、不透明な扉や壁で仕切られていれば別々の独立した存在であるわけです。扉を開放すると、その別々の独立空間はひと続きの空間に変わります。『ロープ』では、カメラが、隣合う独立した部屋の連なりを、冷蔵庫の中まで含めて、ひと続きの空間として捉え直したということが言えるのではないでしょうか。
対してハワード・ホークスの『暗黒街の顔役』は、どちらかというとトリッキーな方法で扉の向う側問題を解決しています。例えば、僕たち建築家は施主にプレゼンテーションする時に、内部の構成(部屋同士の位置関係など)が分かり易いように断面模型を使うことがありますが、ちょうどそれを見るような視点です。現実にはあり得ないような視点ですね。他の例で言えば、蟻の巣を観察するための装置(2枚の透明アクリル板の隙間に土を入れると、蟻が巣をつくる様子を真横から眺めることができる)を思い浮かべると分かり易いと思います。このシーンでは横並びに並んでいる部屋を、壁の黒い切断面を観客に見せて映画の外側から覗いているように描くことで、部屋同士の関係を図式的に伝えているのです。歌舞伎や演劇の舞台装置はこのような断面模型状態になっていることが多いので、演劇的な見せ方と言ってもいいかもしれません。
実は、この映画はマフィアの抗争を描いたもので、映画全体としてはリアリティを追求しています。今お見せしたのは、映画冒頭の2シーンです。そして断面模型を覗くような視点で描いているのは、この冒頭2シーンだけです。つまり、本編への導入部として、ここだけ特別にミュージカルや演劇風に描かれているのです。導入部以外の場面、つまり、お見せした新聞社の場面の次からは、扉を通り抜けるシーンは、後に述べる小津と同じように、主にカッティング・イン・アクションという方法で描いています。つまり一本の映画の中で、扉の向こう側を異なる方法で撮ることによって、導入部と本編を描き分けているのです。
ちなみに、ジャン・リュック・ゴダールの『万事快調』(1972)は、この断面模型を覗くような視点で部屋と部屋の関係を描いています。この映画へのオマージュと捉えることもできるでしょう。
小津の『秋刀魚の味』の扉の場面は、カッティング・イン・アクション[*4]と言われる編集手法によって扉の向こう側を繋げています。
カッティング・イン・アクションとは、動作の途中でカットが入って、続きの動きを今度は別の位置のカメラから撮るというものです。このシーンで説明しますと、廊下の遠くから女性が歩いて来て画面左手前の部屋をノックした瞬間にカットが入り、今度は役員室側から同じ女性が入ってくる姿を捉えるということです。ちなみに先にお見せしたヒッチコックとホークスのシーンには、カットは入っていませんでしたね。
先程の廊下のシーンを見て頂いても分かる通り、カメラは床ギリギリのところに据えられています。小津は、ローアングルで撮る監督なんです。
どの高さで撮るかということも当然重要なポイントですが、僕が感心してしまうのは、それぞれの部屋の中に置かれるカメラの位置の適切さです。それは高さだけに限ったことではありません。廊下という細長い空間とカメラが一体化しているようであり、空間がカメラを規定しているかのように感じます。役員室もしかりです。
このカメラ位置の適切さによって、廊下と役員室は、それぞれの輪郭を厳密に限定し、別々の空間として存在しているのです。何となくというような曖昧な捉え方はしていない。まずはこの2つの空間をはっきりと区別して提示し、その上で、カッティング・イン・アクションという編集方法によって滑らかに接合しているのです。
映画監督それぞれが、扉の向う側問題、もっと具体的には、“扉を開けて開口部を通り抜けること”に対してとても気を使って撮影していることを理解していただけたかと思います。
さてここで、『無防備都市』に戻りましょう。二番目に見たシーン、ピーナという女性が扉を通るところをもう一度見てみましょう。
〔映像2の一部:ピーナがマンフレディを室内に通す〕
踊り場から玄関扉を開けるとき、扉は画面いっぱいに現れます(図2-2-3)。次に室内にカメラが入り、扉を閉めるピーナの動作がカッティング・イン・アクションで繋がります(図2-2-4)。
小津の場合、空間(部屋)がカメラを規定していると言いました。扉はあくまでも空間を構成する一要素であり、画面のなかでそれは厳密に位置づけられています。それに対してロッセリーニの場合は、扉の運動がカメラを占拠するかのような勢いで扉が画面の中心に現れます。扉の開け閉めというものがカメラを規定していると言えるのではないでしょうか。